東京地方裁判所 昭和44年(ワ)8497号 判決 1970年10月15日
原告
間狩和子
代理人
間狩昭
被告
厚生大臣
内田常雄
被告
人事院
右代表者
佐藤達夫
被告
国
右代表者
小林武治
右被告三名指定代理人
横山茂晴
外五名
主文
一、原告の被告厚生大臣及び被告人事院に対する各訴えを却下する。
二、被告国は、原告に対し金百六拾弐万壱千八百円及びこれに対する昭和参拾八年七月弐拾八日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。
三、訴訟費用中、原告と被告厚生大臣及び被告人事院との間に生じた分は原告の、原告と被告国との間に生じた分は被告国の、各負担とする。
事実《省略》
理由
第一 被告厚生大臣に対する請求
一請求原因の要旨
原告の夫北晄は国家公務員たる厚生技官として国立京都病院整形外科に勤務中昭和三八年七月二七日午後一一時三〇分滋賀県近江八幡市において公務上死亡したものである。厚生大臣は国家公務員災害補償法にいう公務上の災害補償の実施機関たる厚生省の長として昭和四〇年二月一五日付をもつて原告に対し、「北晄の死亡は公務上とは認められない。」旨の処分(以下右措置ともいう)をした(以上の事実は、北の死亡が公務上のものであるとの点を除き、当事者間に争いがない。以下争いがないと略称する。)。しかし、右処分は北の死亡が公務上であるにもかかわらず、これを否定した点で違法であるから取消を免れない。
二大臣の右措置は行政事件訴訟法三条二項にいう行政処分に該当するか
補償金、保険給付、退職手当のような国に対する金銭債権の発生またはその行使に当り、法定の要件の充足のほか行政庁の確認行為を要するか否か、またそのために権利者に対しいかなる手続上の権利を与えるかは、立法政策の問題であつて、各実定法規を離れて抽象的一般的にこれを論ずることはできない。
(一) 実体的考察
まず大臣の右措置が災害補償請求権の発生、行使等に及ぼす影響について考察する。
補償法及び人事院規則一六―〇職員の災害補償(以下規則という)をみると、実施機関に災害が公務上のものであると認めた場合に、補償を受けるべき者に対して補償法により権利を有する旨を通知しなければならない(補償法八条、規則九条)と規定されているにとどまり、災害が公務上のものであると認めなかつた場合に通知すべき旨の規定を欠き、しかも、恩給法一二条のように「恩給ヲ受クルノ権利ハ総理府恩給局長之ヲ裁定ス」とか、国家公務員共済組合法四一条のように「給付を受ける権利は、その権利を有する者の請求に基いて、組合が決定する。」とかいうように、行政庁等の裁定等をまつて給付を請求できる趣旨の明文、ならびに労働者災害補償保険法三八条、地方公務員災害補償法五六条等のように保険給付または補償に関する処分に対し取消訴訟の提起を許す趣旨の規定は見当らない。
なお、その請求のために行政庁の確認行為を要するとか、これに関する処分に対し取消訴訟の提起を要する旨の規定を欠くものとして国家公務員等退職手当法や労働基準法の災害補償に関する規定(八章および八条一六号)がある。
してみると、補償法の規定は、形式上国家公務員等退職手当法および労働基準法と同様であり、実質上、災害補償の一般法である労働基準法(八章および八条一六号)に対し特別法の地位を占めるものであるから、同法の災害補償請求の場合と同じように国家公務員の災害補償請求のためには補償法所定の災害の発生および権利者存在等の要件を充足すれば足り、さらに実施機関の公務上である旨の認定を要するものではないと解すべきである。
そうであるとすれば、公務上の災害により補償法に基づき権利を有する旨の実施機関の通知はもとより、公務上の災害ではないという通知もまた、実施機関の見解を表明することにより、災害補償問題を事実上簡易迅速に解決するための措置にすぎず、補償請求権の発生はもとよりその行使についても法律上何らの消長を及ぼすものではないというべきである(最高裁判所昭和三一年一〇月三〇日判決民集一〇巻一〇号一三二四頁参照)。
したがつて、厚生大臣の右措置は、それが原告の補償請求権になんら法律上の影響を及ぼすものではないという意味においては、その処分性を否定せざるをえない。
(二) 手続的考察
しかしながら、仮に災害が公務上のものであるか否かの認定を実施機関に求める申立権が、法律上関係当事者に与えられ、実施機関がこれに対し応答すべき手続上の義務を負うと解されるとすれば、関係当事者は少なくとも適法な手続によつて認定を受けるべきことを要求しうる手続上の権利を保障されているものというべきであるから、実施機関が違法にも申立てを不適法として却下したとき、又は申立てに対し実体的審理の結果これを棄却した場合もその審判続上に違法が存するときは、関係当事者の有する右適法手続によつて認定を受けるべきことを要求し得る権利が侵害されたことになる。このことは認定が前記のように補償請求権の発生行使に法律上の影響を及ぼすと否とにかかわりない。したがつて、実施機関の右認定は右のような意味において行政事件訴訟法三条二項にいう行政庁の処分に該当するものというべく、関係当事者は右の手続上の権利侵害を理由に取消の利益ある限り取消訴訟を提起できると解すべきである(最高裁判所昭和三六年三月二八日判決民集一五巻三号五九五頁参照)。
ところで規則八条、九条によれば、実施機関は公務に基づくと認められる死傷病につきその指定する職員をして報告させなければならず、この報告を受けたときは、その災害が公務上のものであるかどうかの認定を行ない、公務上のものであると認定したときは、すみやかに補償法八条の規定による通知をすべき旨、規定されている。しかし、補償法および規則は、公務上のものであるかどうかについての実施機関の認定の手続上の端緒につき、これ以外に何らの規定をおかず、いわんや関係当事者に対し実施機関に災害が公務上のものであるとの認定を求める申立権を与えたと解されるような規定を欠く。
しかも補償法は災害が公務上のものであると認めた場合に、実施機関が権利者に通知すべき旨を規定するが(八条)、公務上のものであると認めなかつた場合にその旨を通知すべき旨の規定を欠いている。このことも法が関係当事者に申立権を認めることに対し消極的態度をとつていることを示すものである。
以上のような法の規定をみれば実施機関の右認定を求める前記のような手続上の権利が関係当事者に対し与えられているとは到底いうことができない。
(三) 結論
以上説示したように大臣の右措置は実体的にも手続的にも行政事件訴訟法三条二項にいう行政庁の処分その他公権力の行使に当る行為に該当するとはいえない。
なお付言すると、現行の補償法二四条は、「実施機関の行なう公務上の災害の認定……について不服がある者は、人事院規則に定める手続に従い、人事院に対し、審査を申し立てることができる」旨規定するが、右規定には元来審査を請求することができる」旨の文言が使用されていたところ、行政不服審査法の施行に伴い昭和三七年法律第一六一号をもつて現行のような文言に改められたのであつて、このことに徴すれば、法は人事院の右手続をもつて行政不服審査法にいう行政不服審査ではなく、従つて実施機関の行なう右認定もまた行政不服審査の対象となるべき行政庁の処分その他公権力の行使に当たる行為(同法一条、二条参照)に該当しないとの建前をとつているとみられる。
よつてその取消しを求める本訴は不適法として却下を免れず、原告と大臣との間に生じた訴訟費用は民事訴訟法八九条により原告に負担させることとする。
第二 被告人事院に対する請求
一請求原因の要旨
厚生大臣が補償法にいう実施機関たる厚生省の長として昭和四〇年二月一五日付をもつて原告に対し「北晄の死亡は公務上とは認められない。」旨の処分をしたので、北の妻であり、補償請求権を有する原告は右処分に対して人事院に審査を申立てたところ、人事院は昭和四一年二月四日付で厚生大臣の右処分と同様の理由により右申立てを棄却する旨の判定をした(以上の事実は、原告が補償請求権を有するとの点を除いて、争いがない。)。しかし、右判定は、北の死亡が公務上のものであるのにこれを否定した点で違法であるから、取消を免れない。
二人事院の右判定は行政事件訴訟法三条二項にいう行政処分に該当するか
(一) 実体的考察
補償法二四条に定める人事院の手続が行政不服察査ではないことは前述のとおりである。補償法の実施に関し、人事院が同法二条、三条に定める権限とくに三条四項所定の、「実施機関が補償実施の責務を怠り、又は補償法人事院規則及び人事院指令に違反して補償の実施を行なつた場合には、人事院はその是正のため必要を指示を行なうことができる。」との権限を有するのに照応して、補償法二四条は、、人事院が関係当事者の申立てによる判定にもとづき違法不当な実施機関の措置を是正する途を開いたものである。
従つて人事院の判定手続は、補償法を完全に実施する責を有する人事院が、申立でにもとづき具体的案件についてその見解を表明し必要な指令を発することにより災害補償を簡易迅速かつ統一的に実施するための行政上の措置であつて、補償請求の発生、行使に対しては実施機関の措置と同様法律上何らの消長を及ぼすものではない。
(二) 手続的考察
しかしながら、補償法二四条は、関係当事者に対して実施機関の行なう公務上の災害の認定等について審査を申し立てることができる旨規定し、もつて審査申立権を与えた。従つて第一の二(二)に説明したように、もし審査申立てがなされたのに人事院が違法にも右申立てを不適法として却下したとき、又は申立てに対し実体的審理の結果これを棄却した場合に「災害補償についての審査の申立て」(人事院規則一三―三)に違反して審理する等の手続的違法が存するときは、関係当事者の有する適法手続により判定を受けるべきことを要求しうる権利が侵害されたというべきである。したがつて、人事院の判定はこの限りにおいて行政事件訴訟法三条二項にいう処分に該当するものというべく、関係当事者は右の手続上の権利侵害を理由に取消の利益ある限り取消訴訟を提起できると解すべきである。
ところで、厚生大臣から「北晄の死亡は公務上のものとは認められない」旨の措置を受けたにすぎない原告が補償法二四条に基づき人事院に対する審査申立権を有するか否かは問題の存するところであるが、右の点をいずれに解するにせよ、原告は右申立権があるものとして人事院に対し大臣の右措置につき審査の申立てをし、人事院もこれを受けて同条に基づき審査を遂げたうえ右申立てを棄却する旨の本件判定をしたというのであるから、右判定は前述したような意味において行政事件訴訟法三条二項にいう行政庁の処分に当たるものというべきである。
(三) 結論
したがつて、人事院の本件判定は、前述のような意味において、実体的には行政事件訴訟法三条二項にいう行政庁の処分その他公権力の行使に当たる行為に該当しないが、手続的には行政庁の処分に該当するものということができる。
三原告は人事院の本件判定の取消しを求める法律上の利益を有するか
原告は、本件訴訟において、人事院の右判定取消しと合わせて国に対し災害補償の給付を求めている。そして、この災害補償給付訴訟においては、災害補償請求権の存否等について既判力ある終局的な解決を得ることが可能である。これに対し、右人事院判定取消訴訟においては、たとえ右判定に手続的違法ありとしてこれを取消しても、原告は再度人事院の適法手続による判定を求めうるにとどまり、しかも、右判定たるや必ずしも原告の申立てを認容するものとは限らず、右申立てを却下または棄却する場合もあるのみならず、そのいずれの場合にも人事院の判定は前示のとおり災害補償請求権の発生、行使に法律上なんらの消長を及ぼすものではないからその存否等につき終局的な解決を与えるものではない。そうとすれば、原告は、補償法二四条の手続に則つて審査を申立てた者として、本来本件人事院の判定の取消しを求めるにつき原告適格を有しているのであるが、少なくとも本件のように災害補償請求権の存否等につき既判力による終局的な解決が可能な給付訴訟をすでに併合提起した場合には、人事院判定の取消しを求める利益を欠くに至つたものというべきである。
四結論
以上説示のとおりであるから、人事院の本件判定は手続的には行政事件訴訟法三条二項にいう処分に該当するものということができるが、原告はこれを取り消すにつき法律上の利益を欠くから、いずれにしてもその取消しを求める本件訴えは却下を免れず、原告と人事院との間に生じた訴訟費用は民事訴訟法八九条により原告に負担させることとする。
第三 国に対する請求
一 国家公務員についての災害の発生
北晄が昭和三三年四月から国家公務員である厚生技官として、国立京都病院整形外科に勤務し医療業務等に従事していたこと、北が昭和三八年七月二七日午後一一時三〇分滋賀県近江八幡市で死亡したことは争いがない。
二公務起因性
原告は北の死亡がその長期間にわたる公務上の過労に起因するいわゆるポツクリ病によるものであると主張するので、以下その過労の程度に関連し病院における北を含む医師の勤務状況、疲労の状況、北の死亡時状況等につき検討し、その死亡が公務に起因する否かを判断する。
(一) 病院整形外科の人的構成
右病院整形外科の昭和三七年八月現在における医師の陣容が、医長有原康次、医員北晄、田中清介、橋本東であつたことは、<証拠>によつて認められる。有原が大阪医科大学教授を兼ねているため病院には週二日即ち月曜日と木曜日とに出勤するにとどまつたこと、その他の三名は常勤であつたが、田中が昭和三八年二月一六日退職し、室賀竜夫医師が同年四月一日後任として任命され、橋本が同年四月末日退職し深瀬宏医師が同年六月一日後任として任命され、いずれも京都大学大学院及び附属病院から着任したことは争いがない。
<証拠>によると、室賀は同年二月田中の退職に際し同人から業務の引きつぎを受けそのまま病院に事実上勤務し、同年四月一日の正式発令に至つたこと、橋本退職のしばらく後中井医師が治療業務の応援に来たこと、橋本の退職に伴い北が事実上副医長の役割を果すべき立場におかれたことが認められる。
(二) 整形外科医師の勤務割
整形外科医師の昭和三八年七月当時における一週間勤務割が別表第一のとおりであることは争いがない。
(三) 北の死亡前一年間における整形外科の業務状況
昭和三七年八月から昭和三八年七月まで整形外科の月別一日平均の外来患者数は別表第二、月別手術件数は同第三、月別ギプス件数は同第四、月別一日平均入院患者数は同第五のとおりであること、
そのうち手術についてみると右期間内に整形外科の全医師が担当した手術の件数を執刀医別、点数別(点数四九九点以下、五〇〇点から九九九点まで、一〇〇〇点以上にわけることをいう。)、各月別に分類し、その各合計及び各月別医師一人当り平均件数を示せば、同第六のとおりであること、
昭和三八年六、七月の点数及び手術所要時間の合計を執刀医別、各月別に示しかつその平均値を掲げれば、同第七のとおりであること、
北は補助医としても手術に従事しているので、昭和三七年八月から昭和三八年七月までの補助医としての手術件数を点数別に各月毎に集計すれば、別表第八のとおりであること、
以上の事実は争いがない。
整形外科の医師全員が昭和三八年一月から七月までの間執刀医及び補助医として従事した手術全部の各月ごとの執刀医別、補助医別診療報酬点数、手術所要時間の各合計は、別表第九の(一)中争いのない部分(事実摘示第二乙二(三)および同第三の四(二)参照)および<証拠>によれば別表第九の(二)のとおりである。
(四) 死亡前一年間における北の業務遂行及び疲労の状況
1 経歴資質等
<証拠>によれば、北は昭和三〇年三月大阪市立医科大学を卒業し、同三一年七月医師免許を取得のうえ、同年八月京都大学医学部附属病院整形外科副手に任命され、同三三年四月辞職し、同年五月厚生技官に任命され国立京都病院整形外科に勤務するようになつたものであるが(厚生技官に任命され病院勤務を命ぜられたことは争いがない。)、その後も優れた学識と卓越した技術、患者に対する愛情、ならびに責任感強く積極性ある資性をもつてその業務を遂行したことが認められる。
2 業務内容一般
前示認定の各事実に<証拠>をあわせれば、昭和三八年四月末日橋本医師が退職して以後北は副医長格であつたが、医長たる有原が非常勤のため、その職責はそれだけ重く、病院の外来患者診療、入院患者診断施療、育成医療(小学生を長期入院させ治療しながら、教員の出張を得て所要の授業を行なうものであつて、病院は全国にさきがけてこれを実施した。)、レントゲン透視、諸検査、ギプス、手術、診療のために必要な文献等の調査研究、実験、機械の整備、関係書類の作成、当直、日直、病院内における会議への出席、インターン生と看護婦との指導に従事したことが認められる。
北が週一回肢体不自由児を収容する京都市立呉竹養護学校の校医として児童の診断を担当したこと、国立京都病院看護学院に出講したことは争いがなく、<証拠>によれば前者の期間は昭和三三年一〇月一日から死亡までであり、<証拠>によれば、後者の期間は昭和三五年度に約四カ月、昭和三六年度に約五カ月、昭和三七年度に約五カ月(同年一〇月二〇日から昭和三八年三月三〇日まで)であることがそれぞれ認められる。
3 一週間の業務日割
争いのない別表第一ないし第六記載の各事実と<証拠>を総合すれば、北を含む整形外科医師の業務日割は、昭和三八年七月当時において次のとおりであり、それ以前一年間においてもほぼこれと同様であつたと認められる。
「月曜日
午前九時から午前一〇時三〇分まで有原は北、室賀、深瀬とともに病棟を回診する。入院患者は平均約六六名である。
午前一〇時三〇分から午後一時三〇分まで有原は新来患者を室賀又は深瀬の補助を得て診療し、北は再来患者を単独で診療する。外来患者続数は一日平均六八名うち新来二、再来八の割合であるから、北の診療患者数は平均五十数名となる。
午後二時から医師全員が適宜組合つて手術を行なう。有原は殆ど執刀医、北、室賀、深瀬は執刀医と補助医とを勤める。有原以外の者は輸血、麻酔等手術前の準備作業、及び手術後回復室等における患者の診断も併せ行なう。一カ月の手術件数は約四〇件であるから一日平均五件位である。
火曜日
午前九時から午前一二時まで北、室賀は各自担当の入院患者を回診する。
午後二時から午後五時まで北は室賀とともにギプスを行なう。一カ月のギプス件数は五八件であるから一日平均一五件位となる。
午前九時から午後一時三〇分まで深瀬は外来患者を新来再来を問わず単独で診療する。
午後二時から午後五時まで深瀬は担当の入院患者の回診及びギプスを行なう。
水曜日
午前九時から午後一時三〇分まで北は外来患者を新来再来を問わず単独で診療する。
午後二時から午後五時まで北は前同様担当の入院患者の回診及び患部のレントゲン透視、筋電図を含む諸検査を行なう。この間病院管理診療会議又は医学研究行事が行なわれる。
午前九時から午後五時まで室賀、深瀬は担当の入院患者の回診、レントゲン透視、諸検査を行なう。
以上のレントゲン透視、諸検査の中には木曜日の手術の準備にあたるものも含む。
木曜日
午前九時から午前一〇時三〇分まで有原は北、室賀、深瀬とともに病棟を回診する。
午前一〇時三〇分から午後一時三〇分まで有原は新来患者を北又は深瀬の補助を得て診療し、室賀は再来患者を単独で診療する。
午後二時から医師全員が手術に当る。
その要領は月曜日と同一である。
金曜日
午前九時から午前一二時まで北は呉竹養護学校で検診を行なう。
午後二時から午後五時まで北、深瀬はレントゲン透視及び諸検査を行なう。
午前九時から午後一時三〇分まで深瀬は前同様外来患者を単独で診療する。
午前九時から午後五時まで室賀は担当の入院患者の回診、レントゲン透視、諸検査を行なう。
これらのレントゲン透視及び諸検査の中には翌週月曜日の手術の準備にあたるものも含む。
土曜日
午前九時から午後零時三〇分まで北、深瀬は担当の入院患者を回診する。その後は治療のための研究調査、書類の作成その他の業務を行なう。
午前九時から午後一時三〇分まで室賀が前同様外来患者を単独で診療する。
午後二時三〇分から室賀は担当の入院患者の回診を行なう」
右認定事実の主要部分を摘記すれば、有原以外の医師は入院患者を各別に受持ち、ほぼ毎日一回、回診し、週二回、外来患者を単独で診療し、レントゲン及び諸検査を実施し、週二回有原も加わつて互に分担協力して手術を行ない、週一回、単独で患者にギプスを施し、有原の新来患者診療に立会うわけである。
<証拠>によれば、北はこのほかの業務、即ち育成医療、治療に必要な調査研究、実験、機械の整備、患者の生活保護、災害補償等に関する書類の作成、当直、日直、会議出席、インターン生及び看護婦の指導を右業務日割のなかで随時行なつたことが認められる。
4 北に対する勤務のしわよせ
<証拠>をあわせると、橋本は開業に伴う退職が予定されており、おそくとも昭和三七年八月頃から外来患者の診療を主として行ない、入院患者の診療、手術、ギプス等を担当することは他の医師より少なかつたこと、昭和三八年二月田中、同年四月橋本の各退職後、中井、室賀、深瀬が順次時をおかず後任として業務に従事したけれども、臨床及びその他の事務処理に経験不足のため、その診療等の業務遂行には先輩医師の立会指導を要する場合が多く、有原は非常勤であつて勢い北がその立会指導に当らざるを得ず、その負担が重かつたことが認められる。
5 手術
(1) <証拠>によれば、手術に際し、一名が執刀医として責任をもつてこれを行ない、通常一名以上の者が介者又は補助医として傷が開いたとき鉤をもつて押え鉗子をもつて出血を止める等の作業に従事すること、その精神的肉体的疲労の度合は、勿論、個人差や手術内容の差もあり一概にはいえないにしても、補助医の疲労度が執刀医に比し著しく少ないとはいえないことが認められる。
そこで北の手術による疲労度をみるには北が執刀医として従事した手術のほか、補助医として従事した手術をも検討しなければならない。
(2) 北が執刀医として実施した手術についてまず検討する。
弁論の全趣旨によれば、国立京都病院を含む保険医療機関等が健康保険等の被保険者に療養の給付をしたとき取得できる療養に要する費用は点数をもつて表示されていることが認められ、(昭和三三年厚生省告示一七七号「健康保険法の規定による療養に要する費用の額の算定方法」参照)、右点数が正確とはいえないまでもある程度手術の難易を示していることは原告の明らかに争わないところであるからこれを自白したものとみなす。そこで病院整形外科において昭和三七年八月から昭和三八年七月まで実施された手術を右点数に従い四九九点以下、五〇〇点から九九九点まで、一〇〇〇点以上に分類すれば右分類は手術の難易従つて医師がそれに用いる精神的肉体的労苦の大小をある程度示すと認められる。即ち四九九点以下の項に属する手術は比較的労苦の少ないもの、五〇〇点から九九九点までの項に属するものは中程度のもの、一〇〇〇点以上の項に属するものは比較的労苦の多いものといえる。
争いのない別表第六によれば、右期間中有原と北との執刀医としての手術総件数は大体各月とも医師一人当りの平均件数を上廻り、年間でも右平均を上廻つて各人合計百二十数件に達するが、四九九点以下の手術件数は有原二三件、北六四件、一、〇〇〇点以上のそれは有原六四件、北二二件であり、その他の医師は右両名に比し少ない件数を担当しその大半は四九九点以下に属することが認められる。これを百分率に引き直せば、北の手術総件数の51.82パーセントは四九九点以下に、17.81パーセントは一、〇〇〇点以上に属し、その比率は有原と全く逆である。別表第六により計算すれば、四九九点以下の手術につき医師一名当りの右一年間における平均件数は44.5件(一名当り平均手術総件数97.25件の45.74パーセント)一、〇〇〇点以上の手術につき同様件数は26.25件(同上26.99パーセント)となることは計数上明らかであるから、北の担当件数は四九九点以下の手術につき右平均よりも19.5件(6.08パーセント)多く、一、〇〇〇点以上の手術につき右平均よりも4.25件(9.18パーセント)少ないことになるのである。
争いのない別表第七によれば、死亡直前の昭和三八年六、七月において北が執刀医として従事した手術の総点数は一〇、三一六点、総所要時間は九七五分であつて、有原の右総点数三三、一九三点、右所要時間二、四八七分に比すれば、著しく少なく、深瀬の右総点数一二、一一〇点よりも少なく右所要時間九七五分と同一である。
以上によれば、北が執刀医として従事した手術に関する限り、北の負担は他の医師に比し過大であつたとはいえない。
(3) 北が執刀医及び補助医として従事した手術について検討する。
前記認定の別表第九の(二)によれば、昭和三八年一月から七月までの間有原が執刀医として従事した手術の点数合計は八九、五〇九点、所要時間合計が七、二四三分、補助医としてのそれは四九一点、二八五分、総計九〇、〇〇〇点、七、五二八分、北の執刀医としてのそれは四八、三三一点、四、七〇八分、補助医としてのそれは三六、九六五点、四、二三三分、総計八五、二九六点、八、九四一分、田中・室賀の執刀医としてのそれは二二、一三一点、二、六三八分、補助医としてのそれは五七、四一二点、五、四八七分、総計七九、五四三点、八、一二五分、橋本・深瀬・菅野の執刀医としてのそれは一二、七、九〇点、一、〇三四分、補助医としてのそれは一九、六三五点、二、〇八三分、総計三二、四二五点、三、一一七分となる。これによると、北の執刀医及び補助医を含めた点数の総計は有原のそれよりはやや少ないが他の医師よりは多く、その所要時間の総計においては有原を含めたどの医師よりも長かつたのであり、また、執刀医としての点数及び所要時間は有原のそれと比較すれば六割程度にすぎないもののその他の医師に比すれば二倍あるいはそれ以上となり手術の負担は少なくとも有原を除くその他の医師より重かつたといわざるをえない。
6 研究
<証拠>によれば、病院では厚生省の方針に即応し、直接診療に役立つと否とを問わず所属医師に研究を奨励し研究題目を定めて研究費を交付する等の措置を講じている関係上、研究が盛んであり、北もまた各種の研究を遂げ昭和三八年六月学位を授与され、その後、同年一〇月長崎市で開催される予定の全国国立病院療養所総合医学会における新生児疾患のシンポジウムに参加するための研究発表の準備を死に至るまでしていたことが認められる。
7 休養
北が公務多忙のため昭和三七年中有給休暇二日をとつただけであり、昭和三八年中はこれをとらず、同年一月一日、三月二一日、三月三一日、六月九日の各休日に宿直勤務に従事したことは争いがない。
これらの事実によれば、北がその勤務からくる疲労を回復するに足る充分な休養をとることができたとは必ずしもいえない。
8 北の死亡直前即ち昭和三八年六月及び七月の勤務状況
(1) 北の昭和三八年六月及び七月における超過勤務時間数及び勤務内容が別表第一〇のとおりであることは争いがなく、これによれば、超過勤務は六月中一〇日にわたり合計約五〇時間、七月中一一日にわたり合計約三八時間に及び、その内容は手術、宿日直等である。
(2) <証拠>によれば、北は同年七月七日(日曜日)午前九時から午後六時三〇分まで京都YMCA会館において京都肢体不自由児協会等実施のキヤンプ参加希望者六六名に対し、肢体不自由症状の確認、内臓疾患の有無、伝染病の有無、その他全身の健康状況等にわたり身体検査を実施したことが認められる。
(3) <証拠>によれば、北は昭和三八年七月初め頃から疲労の様子著しく、同月中旬頃暑気が激しくなると、それまで訴えたことのない疲労をしきりと訴えるようになつたが、欠勤すれば公務に支障を来すことを案じてそのまま勤務をつづけたことが認められる。
(4) 北の昭和三八年七月一五日以降死亡までの勤務状況は次のとおりである。なおこれは主要なものを示したものであつて、その他の業務については第三の二(四)3に認定した。
七月一五日(月曜日)
午前九時から午前一〇時三〇分まで北は有原の入院患者回診に随行して自己担当の患者の病状経過を説明し、指示を受けたことは争いがない。
<証拠>によれば、午前一〇時三〇分から有原が新来患者を診療中、北は再来患者約七〇名を単独で診療したこと、脊髄腫瘍、仙骨腫瘍のような重症患者を含む入院患者中、北自身の担当する者の数は少なくとも三〇名であつたことが認められる(右時刻に分担して外来患者を診察したこと、担当入院患者数が少なくとも三〇名であることは争いがない。)。
午後北が執刀医として下腿内副子抜釘(点数三一五点、所要時間六〇分)外二件(合計点数一六〇点、所要時間四〇分)の手術に従事し、午後五時一〇分手術終了後も、二時間超過勤務をしたので、勤務が終了したのは午後七時であつたことは争いがない。
証拠について若干判断する。
右第四号証によれば、「入院患者六六名うち重症患者は脊髄腫瘍と仙骨腫瘍とである。」趣旨の記載があり、これと「北医師勤務状況調」との表題と相まてば、あたかも右患者数はすべて北の担当するもののようにも見える。しかし病院の昭和三八年七月中の一日平均入院患者数が66.2人(別表第五参照)であることは争いがないので、この事実と証人有原康次の証言とをあわせると、右の患者数はその総数を示したものであつて、北の担当する患者数はその一部にすぎないというべきである。ところがその担当患者数はこれを肯認するに足りる資料がないので、少なくとも国の争わない三〇名に達していると認めるのほかはない。このことは以下認定する北の担当する毎日の入院患者数についても七月二六日を除き同様である。
また、甲第四号証および争いのない別表第一中月曜日木曜日の欄によれば北は有原の回診に随行したほか担当入院患者を診断したと解する余地のあるような記載があるが、証人有原康次の証言によれば、月曜日および木曜日のように、北が有原の回診に随行したのち直ちに外来患者の診療に当り、これが終るや手術を行なう場合、他の医師が北に代つて北の担当する入院患者を診療することもあつたとの事実が認められる。従つて甲第四号証及び別表第一により北が月曜日および木曜日に有原の回診に随行する以外に必ずその担当入院患者を回診したということはできない。以下七月一八日、二二日二五日についても同様である。
七月一六日(火曜日)
前記争いのない別表第一と<証拠>によれば、北は午前中病棟を回診して前日の重病患者を含む入院患者中自己担当等の少くとも三一名を診療し、午後から他の医師一名とともにギプス一七件を行なつたことが認められる(病棟回診をして入院患者を診療したこと及びギプスを行なつたことは争いがない。)。
七月一七日(水曜日)
前記争いのない別表第一と<証拠>によれば、北は午前九時から外来患者九五名を単独で診療し、午後病棟を回診して前日の重症患者を含む入院患者中北の担当する者等少くとも三〇名を診療し、さらに、レントゲン透視及び諸検査をしたことが認められる(外来患者、入院患者を診断したことは争いがない。)。
七月一八日(木曜日)
午前九時から北は有原の回診に随行して担当の患者の病状経過を説明し、指示を受けたことは争いがなく、<証拠>によれば、これは午前一一時終了したと認められる。
<証拠>によれば、北は午前一一時から有原の新来患者約二〇名(外来患者のうち二割は新来、その余は再来であると認められることは前述した((第三の二(四)3の月曜日の項参照))から、外来患者総数八三名の二割にあたる約二〇名が新来であると推認できる。以下七月二二日、二五日についても同様である。)の診療の助手をつとめたこと、前日の重症患者のほか大腿頸部骨折も含む入院患者中北の担当する者の数は少なくとも三二名であつたことが認められる(右診療の事実は争いがない。)。
北が午後執刀医として髄内釘抜去手術(点数三一五点、所要時間一〇分)に従事したことは争いがない。
七月一九日(金曜日)
<証拠>によれば、北が前日の重症患者を含む入院患者中、その担当する者等少なくとも三〇名を診療したこと、同日当直中不眠を訴えた患者に投薬したことが認められる(診療及び当直の事実は争いがない。)。
七月二〇日(土曜日)
前記争いのない別表第一と<証拠>によれば、北は前日の重症患者を含む入院患者中その担当する者等少なくとも三一名を午前中回診したことが認められる(診療の事実は争いがない。)。北が入院患者診療のため午後二時まで二時間超過勤務したことは争いがない。
七月二二日(月曜日)
<証拠>によれば、北は午前八時三〇分ころ自宅を出て午後九時すぎに帰宅したことが認められる。
北が午前九時から午前一〇時三〇分まで有原の入院患者回診に随行し担当患者の病状経過を説明し指示を受けたことは争いがない。
<証拠>によれば、午前一〇時三〇分から有原が新来患者を診療中、北は再来患者約七〇名(外来患者総数九三名の約八割)を単独で診療したこと、前前日の重症患者を含む入院患者中北自身の担当する者は少なくとも二九名であつたことが認められる(診療の事実は争いがない)。
北が午後執刀医として椎弓切除術(点数一、二六五点、所要時間九〇分)に従事し、かつ、有原が執刀医として臼蓋形成術、骨移植術ギプス(点数一、九四〇点、所要時間八五分)に従事するのに際し他の医師一名とともに補助医をつとめ、これらの手術は午後六時二五分終了したが、北は術後診療のためその後も引きつづき午後八時三〇分まで合計三時間三〇分超過勤務をしたことは争いがない。
七月二三日(火曜日)
<証拠>によれば、北は午前八時三〇分ころ自宅を出て午後七時前に帰宅したことが認められる。
前記争いのない別表第一と<証拠>によれば、北は前日の重症患者を含む入院患者中その担当する者等少なくとも二九名を診療し、他の医師とともにギプス八件を行なつたことが認められる(診療及びギプスをしたことは争いがない。)。業務終了時刻が午後六時三〇分であることは争いがない。
七月二四日(水曜日)
<証拠>によれば北は午前八時三〇分ころ自宅を出て午後八時ころ帰宅したことが認められる。
北が午前九時から外来患者を診療したことは争いがなく、前記争いのない別表第一、<証拠>によれば、その人数は七〇名であり北が単独でこれに当つたこと、北はその後、前日の重症患者のほか大腿及下腿開放骨折も含む入院患者中その担当する者等少なくとも三〇名を診療したこと、レントゲン透視及び諸検査を行なつたことが認められる(入院患者を診療したことは争いがない。)。
七月二五日(木曜日)
<証拠>によれば北は午前八時三〇分ころ自宅を出て午後一〇時ころ帰宅したことが認められる。
午前九時から有原が入院患者を回診したが、北がこれに随行して担当患者の病状経過を説明し、指示を受けたことは争いがない。<証拠>によれば、この回診は午前一一時終了し、北は引きつづき、有原が新来患者十数名(外来患者総数八八名の二割強)を診療するのを補助したこと、前日と同様の重症患者を含む入院患者中北の担当する者の数は少なくとも三〇名であつたことが認められる。
北が午前一一時四五分から執刀医として手指瘢痕形成植皮術(点数四八〇点、所要時間三五分)に従事し、かつ午後二時二五分から近藤京都大学名誉教授が執刀医として仙骨部腫瘍摘出術(点数一、九六四点、所要時間四時間四五分)に従事するのに際し有原、室賀、深瀬とともに補助医をつとめたことは争いがない。
<証拠>によれば、北は右手術を執刀した近藤教授に指導を受けたことがある関係上緊張し、かつ左足股関節が強直しているにもかかわらず長時間にわたり立つたままで、休憩も夕食もとらず、神経の中に入りくんだ腫瘍を除去するという難しい手術に従事し、午後七時一〇分手術を終えた後も担当の入院患者を臨時回診して午後八時三〇分に及び、午後一〇時帰宅した時は疲労の極に達していたことが認められる、(手術終了、業務終了の各時刻は争いがない。)。
七月二六日(金曜日)
<証拠>によれば、北は午前八時ころ自宅を出て、午前九時から外来患者九十数名を単独で診療し、午後二時から引きつづき前日と同様の重症患者を含む入院患者中その担当する者等三〇名を診療し、さらに翌日から次に説明する療育キヤンプに出張するため留守担当医と婦長とに留守中に必要な指示注意事項等を申し送り、午後六時三〇分頃帰宅したが、予定していた岸和田市居住の母を訪問することを疲労のため取りやめ、右出張の準備をした上午後一一時半頃就寝したことが認められる(診療の事実は争いがない。)。
七月二七日(土曜日)
京都肢体不自由協会、京都YMCA肢体不自由児療育キヤンプ合同委員会は昭和三八年七月二七日から同月三〇日まで滋賀県近江八幡市で第九回肢体不自由児療育キヤンプを開催したが、北は病院長萩原義雄から右キヤンプに療育指導のため出張を命ぜられ、同月二七日疲労を覚えつつも(疲労の事実は証拠により認める。)午前九時三〇分同地に向け京都を出発し同日炎天下で肢体不自由児(以下児童という。)の療育指導に従事したことは争いがない。
右の事実によれば、北の右療育指導は公務というを妨げない。
その指導状況をみると、<証拠>を総合すれば、北は午前一一時半頃キヤンプ参加リーダー及び児童ら約一〇〇名とともにキヤンプ場に到着、昼食および休息後午後二時から開会式に参列し、午後三時から炎天下の琵琶湖畔水泳場において背髄性小児まひ、脳性小児まひ等の疾患を有する児童六〇名に一五分間水泳した後一五分間の休憩をとらせるということを三回くりかえし、その間リーダー四〇名とともに陸上又は水中で児童を監視し、終つて二名の児童を検温したほか、救急薬品をもつて水泳場で待機し、午後六時から夕食をとり、午後七時三〇分から午後九時まで児童とともにボンフアイアに参加して児童のゲームや歌への参加状況を観察し、それから個々の児童の疾病、疲労度及び肢体の機能障害のキヤンプ生活における適応度を診断し、午後一〇時までに外耳炎、急性胃腸炎、せき、腹痛を訴える者各一名ずつ計四名を治療し、午後一〇時からリーダー会議に参加して医師としての立場から児童の健康管理上必要な注意を四〇名のリーダーに与え、午後一一時過ぎに就寝しその直後児童一名を診察したこと、その際睡眠薬等を服用しなかつたことが認められる。
(5) 死亡時の状況
北がその後同午後一一時三〇分死亡したこと、死体発見時北の死体には外傷苦もん状態がなかつたことは争いがない。
(6) 健康状態
死後の解剖所見によれば、急性心臓死に伴なう各種の変化を除いては内臓器官のうち通常人よりやや肥大しているものがあり、左冠状動脈始部から末梢側二センチメートルにわたつてアテローム斑により極めて強く動脈腟が狭窄されていることは争いがなく、さらに<証拠>によれば、解剖所見は、このほか心筋断裂が左右心室にびまん性に認められ特に左心室心筋に著しく、両肺の一部に肺胞出血、脾、腎の充血がみられる旨を指摘していることが認められる。
なお北が麻薬、アルコール中毒、結核、消化器病、伝染病、精神病にかかつていないことは争いがない。また、<証拠>によれば、北は昭和三七、三八年中病気等で欠勤したことはない事実が認められる。
(七) 北の死亡の公務起因性
1 北の公務上の過労
以上認定したところを要約すれば、次のとおりである。
北は整形外科医師として、有原医長以外の医師二名とともに入院患者一日平均約六六名を各別に受持ちほぼ毎日一回これを回診し、月曜日は平均五十余名の再来患者を、水曜日は平均六八名の新来再来患者をいずれも単独で診療し、週二回有原の回診に随行し、自己担当患者の病状経過を説明し、指示を受け、レントゲン透視及び諸検査を実施し、有原も加えて互に分担協力して手術を行ない、週一回、単独で平均一五名の患者にギプスを施し、有原の新来患者診療に立会いなお随時育成医療を行なう等の医療業務のほか、調査研究、実験、機械の整備、関係書類の作成、当直、日直、会議出席、インターン生及び看護婦の指導、呉竹養護学校校医、国立京都病院看護学院出講等の勤務に従事し医師として甚だ多忙な日々を送つていたのである。
昭和三八年初め以降整形外科医師二名が相ついで退職したことに伴ない、新任医師の診療指導及び立会をあらたに必要とする等北の負担は増加を見るに至り、とくに手術においては、北が執刀医として従事するものに関する限り有原を除く他の医師よりもきわめて過大な負担を蒙つていたわけであり、さらに、補助医として従事したものも加えれば、北は、手術総点数においてこそ有原に若干劣るが、手術総所要時間においては有原を含めたすべて医師よりも長く、結局手術全体としてみれば負担過大であつたといえる。北はこのかたわら病院の方針に即応して自ら研究等に従事した。このような多忙な業務に追われ、北は、昭和三八年に入つてからは年次有給休暇を一日もとらなかつたのみならず、かえつて日曜日等の休日にも日直をする等のことがあり、十分な休養をとることができなかつた。
このため北はついに昭和三八年七月初めころから疲労を訴えるようになつたが、これに屈せず、同月七日キヤンプ参加者の検診を行ない、少なくとも入院患者約三〇名を連日担当してその診療の責に任じ、週二回、各回七〇名ないし九〇名に及ぶ外来患者を単独で診療し、若干の患者に対し手術を行なつたのである。とくに七月二二日は外来患者約七〇名を単独で診療し、難手術二件に関与しそれによる超過勤務三時間三〇分に及び、同月二三日は一時間三〇分の超過勤務に従事し、同月二四日は外来患者七〇名を単独で診療し、同月二五日は有原が新来患者十数名を診療するのを補助した上、手術二件(うち一件は至難な手術)に関与しその後担当入院患者を回診して超過勤務三時間三〇分に及び、同月二六日は外来患者九十数名を診療し帰宅したときには酷暑のもと疲労甚だしく、同月二七日は公務出張により炎天下の琵琶湖畔において肢体不自由児の水泳の監視、夕方から深更にかけての児童観察、診療、リーダー会議での指導等に従事した。
以上のように要約することができるのであつて、右に認定したほかには北に疲労をもたらすような原因を認めることはできない。
そして北の勤務状況に関する前記認定事実と鑑定人吉村三郎の鑑定の結果とをあわせれば、北の心身には昭和三八年初めから課せられた異常に重い公務に起因する疲労が休日等においても回復することなく蓄積し、とくに同年七月初め以来その疲労は順次その極に達してきたと認められる。
2 医学的評価
北の左冠状動脈始部から末梢側二センチメートルにわたつてアテローム斑により動脈腔が極めて強く狭窄されていることは前示のとおりである。鑑定人吉村三郎の鑑定の結果によれば、一般にアテローム硬化症の存在するとき二次的現象として、(1)動脈内腔の狭細化により血流量の減少を招き、(2)潰瘍形成により内腔は凸凹不平になり、潰瘍面に血栓が形成され、これが剥離して下流の血管に塞栓を生じ、その支配領域の壊死を形成し、(3)変化が強くなると血管壁は侵融、非薄となり、弾力性も減退して血管壁が破綻する等の現象が起こること、もし冠状動脈にこの症状が生ずれば、動脈腔の狭窄、開塞から支配領域にある心筋は慢性的に栄養障害と酸素不足とにおちいり、その結果心筋の変性ならびに壊死をきたし、これは心筋硬塞、狭心症を促すものとなること、また新鮮な心筋硬塞巣や冠状動脈又は大動脈の破綻があれば、出血による心嚢タンポナーデをきたし心停止をまねく場合もあること、一方冠状動脈に硬化性変化がある場合には動脈の攣縮が起こることが多いと言われており、この機能的変化により狭心症発作を呈し、心停止を起こすことも考えられ、硬化性変化が比較的軽度であつても急死を来すのはこのためであること、一般に冠状動脈硬化症の患者が急死する主たる誘因は心身の過労、入浴、飲酒等によつて急激に心臓に負担がかかり、心筋の血液需要に対し絶対的又は相対的血液不足を来たし急性冠状動脈死に至ることにあること、北の右硬化症はかなり高度のもので、医学的にみてその死因は冠状動脈硬化症に基づく急性心臓死と考えて矛盾はなく、急性心臓死の誘因として公務によつて生じた心身の慢性的過労状態が重要因子であることは否定できないことが認められる。
原告は北の死亡がいわゆるポックリ病に基づくと主張するが、前記鑑定の結果によると、ポックリ病とは、内因性急死のなかで病理解剖組織学的の検査をしても心臓は勿論、他の諸臓器に死因となりうる病変が認められないものをいうと認められるところ、前示の認定によれば、北の死因はポックリ病であるとはいえないことは明らかである。
3 法的評価
補償法一条等にいう公務上の死亡とは、公務と死亡との間に法的な相当因果関係が存すること、換言すれば、死亡は公務遂行に起因することを意味する。しかし、死亡が公務遂行を唯一の原因とする必要はなく、既存の疾病が原因となつて死亡したと認められる場合でも、同時に公務遂行が既存との疾病と共同原因となつて、既存疾病を悪化させ死亡した認められる場合には、やはり公務起因性が存在するというべきである。死亡が公務遂行中に発生したことは公務起因性を推認する一資料にすぎない。
本件についてみれば、北は病院整形外科医師として公務出張中深更まで公務に従事した直後、出張先において急死したのであるから、死亡は公務遂行性があると考えられる。さらに右死亡の原因は冠状動脈硬化症による急性心臓死であつて、右硬化症の発生自体に公務起因性があるとはいえないが、急性心臓の誘因として心身の慢性的過労状態が重要因子であることは否定できず、しかも右過労状態はもつぱら北に課せられた異常に重い公務の遂行によつて生じたものであるから、これらの事実を総合すれば、北の死亡は冠状動脈硬化症という原因も存するにせよ、なお公務遂行に起因するというべきである。
三補償請求権
(一) 補償請求権の発生
右に述べたように北の死亡が公務上のものである以上、補償法の定めるところに従い当然に補償請求権が発生する筋合である。
(二) 補償法の規定
昭和四一年法律六七号附則一条、二条によれば、同年七月一日において同法による改正前の補償法に基づく遺族補償中まだ支給していないものについては改正前の補償法によるところ、改正前の補償法一五条、一六条一項一号によれば、公務上死亡した国家公務員の配偶者は平均給与額の一、〇〇〇日分の遺族補償を受給でき、また同法一八条によれば葬祭を行なう者は平均給与額の六〇日分の葬祭補償を受給できるのである。
(三) 平均給与額
北の補償法四条にいう平均給与額が一、五三〇円であることは争いがない。
(四) 補償請求権者
原告が北の死亡当時の配偶者であることは争いがなく、他に北の葬祭を行なう者があると認められないので、原告が北の葬祭を行なうものと推認できる。従つて原告は補償法にいう遺族補償と葬祭補償とを受給できる。
(五) 補償金額
よつて原告は国に対し遺族補償として平均給与額の一、〇〇〇日分に相当する一、五三〇、〇〇〇円、葬祭補償として平均給与額の六〇日分に相当する九一、八〇〇円の支給を求める権利を取得したというべく、その履行期は北の死亡の日と解するのを相当とするから、原告は右金員合計一、六二一、八〇〇円及びこれに対する死亡の日の翌日即ち昭和三八年七月二八日から完済まで年五分の割合による遅延損害金の支払を求めることができる筋合である。
(六) 消滅時効
1 原則
国に対する権利で金銭の給付を目的とするものの時効による消滅については時効の援用を要しない(会計法三一条)が、国の債権債務の画一的処理という右規定の目的上、補償請求権にも右規定の適用があると解すべきである。
そこで原告の右権利と時効との関係について当事者の主張をまたず、検討を遂げなければならない。
2 補償法による消滅時効
昭和四一年法律六七号附則二条に基づき原告の補償請求権には同法による改正前の補償法二八条(以下単に補償法二八条という)が適用されるべき筋合である。同条によればその消滅時効期間は二年である。しかし本件の場合実施機関が北の死亡は公務上とは認められないと通知しているので、同条但書所定の事由即ち実施機関が補償法八条の規定により補償を受けるべき者に通知をしたことも、自己の責に帰すべき事由以外の事由によつて通知することができなかつたことも、立証できないことは勿論であつて、右請求権は補償法二八条に規定する二年の消滅時効の適用を受けないというべきである。
3 会計法による消滅時効
補償法二八条の二年の消滅時効が適用されないときでも、一般法としての会計法三〇条の五年の消滅時効が適用されるべきであるから、原告の補償請求権の消滅時効は履行期から五年経過した昭和四三年七月二七日の経過とともに完成すべき筋合である。
そこで時効中断の事由があるかどうかを検討する。
補償法二四条三項は人事院に対する審査申立ては時効の中断については裁判上の請求とみなすと規定する。そして、原告が厚生大臣の北の死亡が公務上のものとは認められない旨の認定につき人事院に対する審査申立てをしたことは争いがなく、<証拠>によればその期間は昭和四〇年中であると認められる。
ところで第二の二(二)において説明したように、補償法及び関係規則が、災害が公務上のものとは認められないとの実施機関の認定に対しても審査申立てを許したものか否かは疑問の余地なしとしないから、原告の右申立てが災害が公務上のものとは認められないとの認定に対するものである以上、その適法性についてもなお検討を要するのであるが、仮に右申立てが不適法であるとしても、国自ら右のような不明確な規定をおきながら、これに依拠した審査申立てを不適法として時効中断の効力を奪うこと(民法一四九条参照)は妥当な法解釈とはいい難く、しかも災害が公務上のものとは認められないとの認定に対する審査申立ては国に対する補償請求権行使の意思を含むものと解することもできるので、補償法二四条三項にいう時効中断事由としての審査申立てには右のようなものも含むと解すべきである。
そうであるとすれば、右消滅時効は、昭和四〇年中に原告の審査申立てにより中断し、中断事由の終了したときから更に進行を始めるのであるが、中断事由の終了時がいつかはともかくとして原告が国に対し補償請求の訴えを提起したのが昭和四四年八月六日であることは記録上明らかであるから、所詮右消滅時効は未完成というべきである。
四結論
よつて原告の国に対する請求は全部正当として認容すべく、原告と国との間に生じた訴訟費用は民事訴訟法八九条により国に負担させることとし、仮執行の申立てはその必要を認めないので却下するものとする。(沖野威 小笠原昭夫 石井健吾)